2004年11月
生んでしまったという罪悪感で胸が押しつぶされそうになる。
2005年2月(生後3か月)
いっこうに吸い付く気配がなく、ただ目を閉じてじっとしている娘。飲む気配のない娘に、焦りを感じる。心身共にきつくなり、母乳が止まる。
→医師より『何グラムで生まれたと思っているんですか?』言葉が胸に突き刺さる。
2005年3月(生後4か月・修正0か月)
医師より『このまま入院が長引くと母子関係に問題が出ますよ』
→看護婦より『おうちでゆっくり過ごせば飲むようになるかも』その助言にすがるように、退院を希望。
2005年4月(生後5か月・修正1か月)
→家政婦より『飲ませ方が悪いのよ』家政婦が飲ませてもぴくりともしない娘。
2005年5月(生後6か月・修正2か月)
→医師より『口から飲めているのだから、このまま頑張るように』『どこも悪くはない』『ミルクの量は足りない』
2005年6月(生後7か月・修正3か月)
→保健婦『お母さんの心配のし過ぎ、これなら大丈夫よ』
→医師より『スポイトでも飲み込んでいるのだから、続けていくべき。でも、母子関係が不安なら、経管栄養を考えていくけど』『カロリーアップのために、滋養糖をミルクに混ぜて飲ませて』
2005年7月(生後8か月・修正4か月)
→医師より『メーリングリストで、相談はしているんだけどね』
2005年8月(生後9か月・修正5か月)
2005年9月(生後10か月・修正6か月)
2005年10月(生後11か月・修正7か月)
注入を開始するとすぐに吐くので、試行錯誤する。10ml程度の微量でも吐く。注入のスピードをゆっくりにしたり、逆に早くしたりするが、どれも嘔吐。注入するミルクの濃度もいろいろ変えてみるが、何をやっても注入と嘔吐の繰り返し。だんだんと、何のために何をやっているのか訳が分からなくなってくる。ただただ、娘の存在が苦しいのみ。
→新生児科医より『どこも悪くないのだから、訓練は無駄』
無駄と言われることをする心の余裕は一切なかった。
2005年12月(1歳1か月・修正9か月)
目を離すと、チューブを引っこ抜く。抜く時に嘔吐、チューブを入れる時にも嘔吐。だから抜かないように、手をしばった。ガムテープで抑えたこともあった。とにかく指先が器用で、どんなにテープできっちり固定しても、何らかの方法で抜いた。普通は耳のところまでチューブを固定するが、鼻からおでこに向けてチューブを固定した。頭のてっぺんに向けて抜くことはできなかった。しかし、今度は鼻の穴のわずかな部分のチューブに指を引っかけてチューブを抜いた。一見チューブが入っているように見えて、鼻から抜けていることがしばしば。これは何のいたちごっこだろうかと思う。
1日にシリンジで飲む量が300kcalと伝えると、動きや体重から考えて、600kcalは欲しいと言われる。栄養を減らすと一気に抵抗力が低下することから、経管に戻す指示を受ける。
嘔吐を減らしたいと考え、椅子に座らせて上体を起こした体勢のまま、24時間微量ずつ注入する。少し身体を動かしただけで嘔吐したり、立ち上がってイルリガートルを引っ張って落としたりするため、椅子に縛り付けた。かわいそうだったが、こうするしかなかった。身体を横にすると吐くので、オムツ替えのタイミングさえ難しく、お尻が荒れて泣いた。泣き声を聞く度、気が狂いそうだった。
2006年3月(1歳4か月
冷蔵庫の側にいれば食べものに興味が湧くかもしれないと考え、冷蔵庫の前に椅子を置いて、キッチンに立つ母親の姿も見られるようにした。
栄養を減らせば風邪をひいてゼロゼロしぐったりし、栄養を増やせば吐く。どうすればいいのかわからないまま苦しい時間が過ぎていった。
2006年4月(1歳5か月)
運動と栄養のバランスがよくないかもしれないと考え、暖かくなってきたので戸外で遊んだ。が、経験不足の娘は怖がってか何をやっても泣いてばかりだった。体調を崩すので、結局室内で過ごすことに。
いろいろなことがあったはずなのだが、思い出せない。時々娘を置いて外出するのが私のわずかなストレス解消だった。もちろん、連れて歩ける状態の娘ではなかったし。ほんの少し離れる時間がお互いに必要だったと思うが、家に置いていくことが虐待であるという認識もありつらかった。
→新生児科医から『ボクのできることはお母さんの愚痴を聞くだけ』
その5分後に小児科医の外来で、担当医だったY医師がR園(肢体不自由児のための訓練や入院施設)にいくので、紹介状を書いてあげる、引き続いて診てあげるからとの話。
2006年5月(1歳6か月)
→M医師より『状態がかなりこじれているので、少しずつ整理していって今後の方針を考えたい』
2006年6月(1歳7か月)
5月末、嘔吐がいよいよひどくなり、胃液や胆汁のようなものまで吐くようになった。水やイオン飲料も受け付けなくなり、丸1日何も与えず様子を見た。次の日、シリンジを片付けていると、飲みたい様子を見せたため、シリンジで飲ませてみると上手に飲めた。この日から、シリンジで飲ませることとする。
2006年8月(1歳9か月)
シリンジで飲み始めたことが素晴らしいとの評価をうけ、今後もそれで栄養を摂取させることとなる。朝飲んだものを昼に吐くことなどを相談し、消化が遅いのだろうとのことでガスモチン処方。
娘の食欲に任せて飲ませてみると、1日に飲める量はとても少なく、ごろごろぐったりしている。そこで無理に飲ませる量を増やしたところ、娘も頑張って飲めば身体が楽になると気づいた様子で、自分の頭を撫でながら頑張って飲むようになった。
それでも嘔吐に変わりはなく、嘔吐させないようにおもちゃなどで気を紛らわせていたが、一番吐かずにいられたのは胸を叩いて泣かせてしまうことだった。泣きながら吐くことはできなかったので、しばらく泣かせながら飲ませて、しばらくたつと吐かなかった。
この頃になると、私にも異変が現れた。栄養を与える時間が近づくと、動悸と手の震えに悩まされた。こんな、虐待のようなことをしながら娘を育てなければならない毎日が、いったいいつまで続くのか考えると、悲しくて苦しくてどうしようもなかった。
2006年9月(1歳10か月)
娘も私も精一杯頑張り、何とか必要カロリーを摂取できる日が増えてきたが、頻回の嘔吐は変わらなかった。吐いた分を計って飲ませることも多かった。
この頃になると、娘の認知面がぐっと成長したことを感じ始めた。娘は、自分に飲ませない人を瞬時に判断して、異常なほど愛着行為をみせるようになってきた。ある日、記念写真を撮りに出かけた時、ハイハイしながらわたし達の元から逃走した。どれほど親を嫌っているのだろうかとガッカリしたとともに、娘に対する苛立ちも大きくなっていった。
実母より、私の娘への栄養の与え方はいじめであると非難されてしまう。第3子の妊娠に気づくが、これさえも、娘を考えていない証拠だと責め立てられる。実母と距離を取り始める。
結果、逆流は0.2%で全くないわけではないが、これで手術する外科医はいないだろうと言われる。むしろ、バリウムを飲む際に嘔吐反射が出ていたことが気がかりだが、小児外科医は、こういう症例に知識はないとはっきり言われてしまった。当然ながら食道や胃には何の問題もなし。
そして、こういう異常事態でありながら、検査結果が出たとたん、問題がないからという理由で退院させられた。
退院後、ブログで知り合った同じ摂食障がいのお子様をもつ方から、入院を勧められる。
STに、入院したい、もう限界だと相談する。すぐにケースワーカーやR園主治医と相談。娘には病気や障がいがあるとは言えないため、児童相談所に介入してもらうこととなる。
退院後の娘は、自宅に戻ってきた瞬間に表情が暗くなった。栄養を無理強いする人間しか周囲にいないという状況に大きなストレスを抱えている様子がはっきり分かった。そしてまた激しく嘔吐するようになった。ちなみに、検査入院中は、看護婦達にずいぶんとかわいがられた。
2006年10月(1歳11か月)
入院させるとは決めたものの、入院後については何のアイディアもなかった。そんな時にT歯科という摂食に力を入れている歯科医院を紹介していただき、相談。入院までの間の、栄養の与え方について指導をしていただく。
→T歯科より『エンシュアハイをシリンジで1日600mlは、カロリーが満たされていても今後の摂食には結びつかない、飢餓訓練がよいのではないか』
本当にその通りだと思った。無理強いしても、拒否が強まるだけの毎日を、2年間近く続けて得られたことは何だろう。得られなかったものは、何だろう。
エンシュアハイを600飲ませるのなら、イオン飲料も同じくらい必要だとのこと。気が遠くなる。無理。
→歯科医院より『お母さん、エンシュアハイを一気に200飲める?』
自分だってできないことを、娘に強いてきたのだと気づく。
この期に及んで、数回の話し合いを持つが、なかなか娘の状態を正確には理解してもらえない。栄養の与え方を実際にみてもらって、ようやく訓練入院の必要性をわかってもらう。
栄養を与えるところを実際にみてもらうと、保健婦が泣きながらその様子を見てくれた。
→『お母さん、つらかったでしょう』その一言だけで救われる自分に気づく。
2006年11月(2歳0か月)
かつて摂食の課題で入院したお子さんに対して、摂食トレーニングだけして失敗した経緯があるとのことで、娘はSTによる訓練だけでなく、保育士による保育の時間やOTの時間なども確保されることとなった。こうして、食だけでなく体幹の安定や集団での活動など、様々な面からのアプローチをしていただいた。
何度もあちこちに相談して、やはり飢餓訓練しかないと思い要望する。R園のSTは、訓練の経験がないことと、他の医師への具体的な説得材料がないこと、不安要素が大きいことなどを理由に、今はまだ様子を見たいとの返事。焦ることではないので、要望を伝えるにとどまる。
2006年12月(2歳1か月)
Y小児科医には、抵抗力が新生児並みと言われる。そういう子どもを、私は自宅で頑張って育てたのだ。ほんの少し、自分を許してもいいような気がした。
12月下旬まで点滴で過ごすが、フラフラになり、立てなくなる。歩行もだいぶ安定してきて喜んでいたところだったのでがっかりする。
2007年1月(2歳2か月)
この発熱が功を奏したのか、自分から水分を欲するようになる。
病棟の小学生の男の子が、かなり娘をかわいがってくれて、娘も大好きだったようだ。大人がどんなに勧めても食べなかったが、欲のない子どもだから食べたのだろうか。子ども同士の関係の大切さを思い知る。
このことをきっかけに、娘は食べることを始めた。最初はペースト食が主だったが、固形でも可能なものもあった。
2007年2月(2歳3か月)
それは、K総合病院へ眼底検査を受けに一緒に行って、病棟に娘を戻してからだった。病棟でおやつに出たものを食べさせていると、いきなりヒューヒューし始めたとのこと。誰も何も言わなかったが、久しぶりに親と外出して、ストレスがたまったことが一因ではないかと思っている。
2007年3月(2歳4か月)
2007年4月(2歳5か月)
一時帰宅によって、自宅で過ごす練習、自宅での食事の練習を行い始めた。主に昼食を共にして病棟に帰宅することが多かった。
第3子誕生により、娘との主なやりとりは父親。一時帰宅で、焼きうどんを自分でもぐもぐと食べて、上の子と何度も乾杯しながら牛乳を飲む姿が嘘みたいだと思う。
2007年9月(2歳10か月)
第3子誕生に伴い、家庭が落ち着くまでは入院していることが決定。さらに、娘には介助なしで自分で完全に食事がとれるようになることを希望。親がまた食べさせて、元に戻ってしまうことを極端に恐れた。
一時帰宅や食事時の観察などを繰り返す。娘とは、ほどよい距離感が必要だと思った。
2007年10月(2歳11か月)
間もなく退院することを考えて、保育園か幼稚園を検討中であることを相談すると、激怒された。まだ3歳にもならない子どもに対して、何を考えているのかとそればかり。摂食による親子の葛藤についてはどんな言葉を尽くしても理解してもらうことはなかった。この日を境に、この新生児科医の診察を受けることは意味がないのでやめた。もっと早くやめればよかった。
→M整形外科医より『飢餓訓練がこんなにうまくいくとは思わなかった』
成功の要因は、言葉が出ていたこと、身体能力に大きな遅れがなかったこと、認知力がしっかりしていたこと、だとのこと。
→歯科医より『言葉が出ていて歩けるお子さんは、必ず食べられるようになる』
本当だった。
2007年11月(3歳0か月)
順番を守ったり、待ったりすることができず、思い通りにならないと絶叫することがしばしば。
入院中よりたびたび病棟に娘に会いに訪れていた義両親が、娘を預かると提案。週末になると娘を迎えに来ては連れていくようになった。ありがたいのだが、娘も私も、親子関係の修復がなかなかできずお互いに苦しむ。
2008年3月(3歳4か月)
叱ると怯え、絶叫する娘の姿に、私も苦しくなってきてしまった。食べなかった頃の娘の姿がよみがえる。娘も、叱られることをことのほか嫌がった。このままでは、娘にもよくないし、上下の子ども達のしつけにも関わってくると懸念し、思い切った。全てがダメになるのを避けたい一心だった。でも、本当は怯える娘の視線に耐えられなかったのだとも思う。手を差し出せばびくっとするように育ててしまったのは自分。娘がいつもそこにいるということは、自分のやってきたことをみせつけられることなのだ。娘を見るだけで苦しくて、娘と対峙することをやめて自分から逃げ出してしまったのだ。
「娘に会いに行かなければ」と思うのをやめた。まずは、自分の心と精一杯向き合うことにした。娘をみると苦しくなるのは、「栄養を与えなければ」と思い続けてきたことが原因の一つだ。娘に対して義務感を感じるのをやめてみようと思った。
義母のところでも、思い通りにならないと絶叫し、叱らないまったくの他人へべたべたとする態度が見られるようになってきたとのこと。最近は近所のおうちに逃げ込むことを覚え、虐待しているように見られて困ると義母も言う。同じだと思うとホッとした。
2009年4月(4歳5か月)
食べなくなり、嘔吐が始まる。義母の家の側のいろいろな病院に連れて行くが、なかなか理解してもらえず、この程度なら大丈夫と言われながら、ついに総合病院へ入院。点滴などを受けながら、回復すると共に、食欲も回復。ホッとする。
この頃、義母が私の苦労を追体験してくれて、気持ちが救われた。
同じ学年の子どもが5人程度の小さな幼稚園。後に少人数であったことがよかったとわかる。
2010年1月(5歳2か月)
その後も、何回か入院したりいろいろなことがあり、何度かうちに帰るかと聞いてみたり何泊かしてみたりしたが、結局はおばあちゃんがいいとのことで、そのまま義母と過ごす。私自身、それでいいのだと心から思えるようになってくる。久しぶりに会っても、心にしこりがなくなってくる。
忙しくなり、なかなか会えなくなるが、むしろこの頃から距離感を感じなくなる。久しぶりにあっても、怯えなくなった娘。話をするのが楽しくなってきた。
結果だけ見れば、何の問題もなし。特別支援学級の知的や情緒学級は、よほどのことがない限りは適にならないとはっきりする。娘の逃げ場がなくなるような気がしてつらい。
2011年3月(6歳4か月)
共に郡山へ避難し、2週間ほど生活を共にする。子ども達3人そろっての長期の生活は初めてだった。下の子どもと真剣に喧嘩する姿を見ていると、やはり発達にはいささかのでこぼこがあると感じる。
20011年4月(6歳5か月)
簡単には話しきれないたくさんのことがあって、結局4月からも義母と過ごすことに。放射能汚染の心配な地域で、避難民が多くて入学する児童が少ない学校へ入学。
2011年12月(7歳1か月)
離ればなれで過ごす経緯が分からない、その他娘の様々な問題についての話があり。誕生時から摂食の課題などについて話すとともに、娘は診断がないけれどADHDかアスペルガーだと思って接して欲しいと話すとずいぶんホッとした顔をした。担任と義母がうまくいっていない予感。
娘からメールや電話が来るようになった。冬場は義母もかなり気を遣って生活させているようだ。
2012年4月(7歳5か月)
娘へのいろいろな心配はあるが、今の笑顔を大事にしていきたい。